さて、今回も2024年10月末に再々訪したクレタ島旅行のお話になります。
今回は、その中からクレタ島東部のアギオス・ニコラオスからそれほど遠くない2つの遺跡を紹介していきます。
クレタ島と言えば世界史の教科書にも載っているクノッソス宮殿があまりにも有名ですが、それ以外にもミノア文明やそれ以降の時代の興味深い遺跡が至るところに残されています。
その中からよく整備されているラト遺跡とグルニア遺跡を紹介していきます。
ラト遺跡へのアクセスと観光
ラト(Lato)はドリーア時代の紀元前5世紀から4世紀に生まれたアクロポリス(都市国家)と言われています。
それ以前の痕跡もあるようですが、現在残っているアクロポリスの遺跡はこの時代のものとなります。
遠くにアギオス・ニコラオスを望める2つの山頂の間のコル(鞍部)を中心として町が形成されており、そばに近づくまでその存在が見えません(ちょっとマチュピチュみないな感じです)。
そこからもこの町が防衛上の利点から形成されたことがよくわかります。
ラトという名前の由来は、おそらくレト女神(ドーリア語の通常の表記ではラトであり、アポロンとアルテミスの母)にちなんで名付けられ、線文字Bの粘土板にはRA-TOと記されています。
ラトは古代に貨幣も鋳造しており、ラトで特に崇拝されていたと思われる女神エイレイテュイアの肖像が刻まれています。
また、アレクサンドロス大王(アレクサンダー大王)の提督であるネアルコスの出身地でもあります。
ネアルコス(ギリシア語:Νέαρχος、紀元前 360年頃- 紀元前300年)は、アレクサンドロス大王の軍隊のギリシア人将校、ナヴァルクの一人である。彼は、紀元前326年- 紀元前324年のアレクサンドロス大王のインド遠征に続いて、インダス川からペルシア湾を通り、チグリス川河口に至る有名な遠征航海で知られている。
紀元前 3 世紀末までに、ラトの住民はクレタ島都市同盟に参加し、同じ法律を共有しており、ロードス、テオス、ペルガモンの王エウメネスと多くの同盟を結びました。
この都市の港はラト・プロス・カマラ(現在のアギオス・ニコラオス)で、2世紀半ばまでに非常に繁栄したため、行政の中心地はそこに移され、その後ラトは放棄されていきました。
それでは、さっそく中へ進んでいきましょう。
入口には、しっかりしたゲートが設置されており、管理が整った遺跡となっています。
入場料は3ユーロで事前購入やネットでのチケットの販売はありませんので現地での支払いとなります。
また、朝は8時30分より開いておりますが、終了時間が午後3時と早いので注意が必要です。
ゲートとからしばらくは左手に深く切れ込んだ谷を見ながら少しずつガレ場を進んでいきます。
廻りには遺跡のような、ただのガレ場のような判別が難しい箇所が続きますが、数分で本格的な遺跡の入り口にたどり着きます。
ここから遺跡に入り、しばし直進した後、町の中心部である鞍部へ通じるメインストリートの石段がほぼまっすぐに上部に向かい伸びています。
左右には、かつての住居跡と思われる廃墟が次々と現れます。
2つピークの間にある鞍部まで上ると山の斜面に残る遺構がよく見渡せます。
ちょうど柵が張られている部分はかつての貯水槽で、この周りにアゴラ、プレタネイオン(公共施設)、神殿などが集まっていた。
遺跡は鞍部を中心に2つのピークに向けてせり上がっているが、上部に向かうにつれ崩壊が激しく、次第にただのガレ場の様になっていきます。
また危険性も問題もあり、最上部へ向かうことはできなくなっていました。
鞍部を挟んで反対側の山肌にも、劇場など様々な公共施設の跡(ほとんど基礎部分だけですが)、残っています。
また、はるか遠くにはアギオス・ニコラオスの町と港が見渡せます。
反対側の斜面にも行ってみると、こちらも大きな建物跡が多くみられ、その精巧な石積みがよく残っていました。
こちら側の斜面も上部の崩壊は激しく上へ進むことはできません。
その代わりではありませんが、海側からせり上がる尾根のほうへ延びるトラバースルートを進むことができます。
かなりの急斜面に延びるトラバースルートなのでここからは自己責任で行くことをお勧めします。
こちらのルートは整備が行き届いておらず、ほぼガレ場を横に進むような道が続きますが、尾根まで出ると、これまで以上にエーゲ海やアギオス・ニコラオスの町を一望できます。
さらに、こちらと同じように反対側の山の斜面にも遺跡から横に尾根まで延びるルート沿いに明らかな人工物が多くみられました。
季節外れの10月末ということもあり、訪問者は少なく、我々を含め3グループのみだったため、ほとんど擦れ違うこともなく、好きなだけゆっくりと歩き回ることができました。
これまでも、同じように山や丘の上に展開されているギリシャの遺跡群を見てきましたが、サントリーニ島の古代ティラ遺跡と並んで、なかなかのオススメ遺跡でした。
ただ、注意点としては、整備された有料の遺跡とはいえ、未整備の部分なども多くあり、必ずしも柵で囲われた内側だからと言って安全な場所ばかりではありません。
しっかりとした靴で行くことをお勧めします。
また、ここは山の上の遺跡なので、明らかに気温も違いました。
遺跡へのアクセスは公共交通機関では難しく車が必要となります(バスを利用した場合、バス停から1時間程度徒歩)。
アギオス・ニコラオスからは車で約10数キロ、20分程度でアクセス可能です。
グルニア遺跡へのアクセスと観光
さて、次にご紹介する遺跡は、さらに歴史を遡るミノア文明時代のグルニア遺跡(ゴルニア遺跡)です。
グルニア(古代の名前は不明)は、発掘された中規模集落の中で最も特徴的なものであり、ミノア文化の最盛期(後期ミノア文明期:紀元前1550-1450年)のものとされています。
保存状態がよく、『ミノア文明のクレタ島のポンペイ』と呼ばれています。
遺跡は海岸線から少し離れた丘の上にあり、最初の住民は、前期ミノア文明 III期(紀元前2300年)にここに定住しました。
中期ミノア文明(紀元前 2000-1600年)を経て紀元前1600年頃に宮殿が建てられましたが、紀元前1450年に周囲の町とともに破壊され、ク レタ島の他の宮殿の中心地もすべて同じ時期に破壊されました。
50年後、この遺跡は部分的に再占領され、紀元前1200年頃に最終的に放棄されました。
グルニアの発掘は、1901年から1904年にかけて、この遺跡で発見された印章石に促されて、アメリカの考古学者ハリエット・ボイド=ホー ズなどにより行われました。
発掘以前から集落の遺跡は見えていたため、村人たちは、この地域に石の盆地(ギリシャ語で「グルネス」)が保存されていることから、この場所を「グルニア」と呼ぶようになったようです。
それでは、こちらの遺跡にも入っていきましょう。
街道から脇道に入りすぐに遺跡へのエントランスがあります。
特に駐車場はありませんが、おのおの路肩に駐車していました(混んでないので問題なし)。
柵の中を進むと管理棟が現れ、そこで入場料3ユーロを支払った見学を開始します(オンラインチケットや前売りのようなシステムは無し)。
こちらも終了時間が午後3時半と早いので注意しましょう。
緩やかな丘の上に作られた町へは下部から入ることになります。
入口からは丘の上へ向かうルートもしくは東斜面に広がる住居跡などを進むルートで見学を始められます。
こちらもあまり説明が書かれているわけではないので、なんとなく雰囲気を味わいながら散策する感じです。
遺跡は主に地上階、または地下部分のみが遺構として残っており、クノッソスで行われたような大幅な修復(クノッソスはこれが原因で世界遺産に登録できない)は行われておりません。
十分な説明がないので、石畳の道を進みながら、勝手に”ここが家の入口だね”とか言いながら、とにかく自由に石の壁の上を飛び跳ねながら散策します。
メインルート以外は、比較的狭い石畳の道が張り巡らされていました。
当時の家屋の壁がせり立っていることを考えると結構な圧迫感の様にも感じます。
家々には細かく仕切られた壁の基礎が残されており、なんとなくですが、ミノア文明の住居の広さや間取りなどを考えながら歩いていました。
本当にところどころですが、重要な発掘が行われた場所には小さい看板と簡単な説明が書かれています。
発掘された遺物はほぼすべてクレタ島の中心地イラクリオンの博物館にあるようで、セットで見学するとより印象が強くなることと思います。
住居群を抜けて東斜面より丘の中央部に上っていくとテラス上の台地に達し、そこがこの遺跡の中心部だったとはっきりとわかる大きな建物(アゴラや神殿など)の遺構が現れます。
ここまで上がってくると眼下に海を眺めることができます。
この遺跡にもセットとなる港がかつてはあったそうです。
このメインテラスから遺跡はさらに上部に向けて伸びていますが、次第に修復状況は悪く、ガレ場となっていきます。
遺跡上部からあたらめて町の中心部のテラスを眺めるとこんな感じ。
またテラスに通じるメインストリートは、石畳もきれいで幅もあり、現在でもしっかりとその存在感を示しています。
また、このそばには、曲がり角に立つ石碑のような石板があり目を引きます。
西斜面にも遺跡がありそうに見えますが発掘は進んでいないようでガレ場になっています。
とは言え、放棄されてからすでに3000年以上が経過した町の遺構がここまで広範囲に残っていると感慨深いものです。
我々はおおよそ2周ぐらい遺跡内を巡って散策をつづけました(多分2時間ぐらいはいた)。
その後、かつての港があった場所にもGoogle Map上はしるしが付いていたので歩いて行ってみました(約15分ぐらい)。
こちらは波による浸食も激しく、どこがそうだったのかわかるような痕跡を見つけることはできませんでした。
その代わりといっては何ですが、海はものすごくきれいでした!
遺跡は、アギオス ニコラオスとイエラペトラを結ぶ街道沿いにあり、イラクリオンから約 1 時間半、アギオスとイエラペトラの両方から約 30 ~ 40 分です。
バスまたは自動車で行くことができ、遺跡のすぐ外にバス停がありますが、時間的な溶融を考えると自動車でアクセスすることをお勧めします。
まとめ
今回はクレタ島東部で訪れた2つの遺跡を紹介しました。
それぞれ年代が大きく異なる遺跡ではありますが、当時からは地中海には開けた文明が存在し、発展を遂げていたいた痕跡が今も残っているのは、流石、石の建造物だと思わざるを得ません。
クレタ島だけでも、まだまだ訪れていない遺跡がいくつもあると思うと、いましばらくはクレタ島への訪問が続きそうな気もします(オリーブオイルも安いし)。