さて、今回も2024年10月末に再々訪したクレタ島旅行のお話になります。
今回は、その中からクレタ島観光でも大人気?らしいスピナロンガ島観光に関してお知らせしていきます。
人気度は、クレタ島観光地で2位、ギリシャ全体でも6位と言われる大人気観光地ですので、是非ご覧いただければと思います。
スピナロンガ島について
スピナロンガ島は、クレタ島の東部に位置する、歴史が詰まった島です。
古代遺跡もあったようですが、はっきりしているのはヴェネツィア共和国による支配がはじまってから。
その後のオスマン帝国による支配、さらにその支配が解放されたのちは、ハンセン病患者の隔離島として知られ、その悲劇的な歴史が世界中から注目を集めています。
しかし、現在は美しい自然と歴史的な建造物が残る観光地として、多くの旅行客が船を利用して訪れています。
ヴェネツィア共和国時代(1210-1715)
ヴェネツィア共和国は1210年からクレタ島を占領し、統治期間中に島に数多くの要塞を建設しました。
スピナロンガ島はそれらの中では最後に作られた要塞の一つでした。
当初は15世紀半ばに湾の浅く塩分の多い海域に塩田を建設し始めましたが、次第に商業的価値を得ていき、人が住むようになったそうです。
1453年のコンスタンティノープル陥落後は、オスマン帝国の脅威が高まり、また海賊の襲撃が続いたことから、ヴェネツィア共和国は島を要塞化せざるを得なくなったようです。
現在も島のいたるところに当時の要塞の一部が残っています。
特に島の南部には船着き場を見下ろすように半円形の要塞や島を囲む城壁が聳え立っています。
オスマン帝国時代(1715-1903)
クレタ戦争を得て、1715年、ついに島は合意によりオスマン帝国に譲渡され、住民は安全にコルフ島に移送されるという条件が付けられたようですが、オスマン帝国は合意を守らず、地元住民を虐殺し、奴隷にしたそうです。
スピナロンガ島はヴェネツィア側に残っていた最後の要塞であり、この出来事によりクレタ島から完全にヴェネツィア共和国は撤退したことになります。
1898年に弱体化するオスマン帝国とギリシャとの合併を希望するクレタ島の争いに欧州も加担し最終的にはクレタ島自治国として独立を果たしていきます。
ハンセン病療養所時代(1904-1957)
クレタ島自治政府は1903年に、ハンセン病患者の強制隔離をスピナロンガ島で行うと宣言し、これにより、残っていたイスラム教徒は強制的に移住させられたそうです。
最初に251人のハンセン病患者が1904年10月に到着し、その後も時折、時には拘束されながら到着し続けたそうです。
当時、ハンセン病は極度の偏見と結び付けられており、スピナロンガ島に送られた患者の家族は、その場所とのつながりについて言及することを避けることが多かったそうです。
さらにハンセン病患者がスピナロンガ島に送られると、彼らの名前は故郷の登録簿から削除されとのことです。
当時のスピナロンガ島は患者を隔離する場所とみなされており、治療を目的とした場所ではなかったそうです。
島の環境は劣悪で、1930年代までコミュニティ意識はほとんどなく、患者は食べ物、ギャンブル、アルコールに頼った厳しい生存主義の状態にあり、逃亡や自殺を試みた者も多かったようです。
しかし1925年以降は、次第に訪れる医師の提言などで環境は改善されていきましたが、患者の隔離廃止政策が本土でとられている間も島では引き続き療養所が運営されていました。
しかし、1957年に患者が他の医療施設に送られたことで、ハンセン病医療施設としての役目をついに終えました。
その後、島は放置されしばし時間が流れます。
その後と観光化
その後、研究家や学者による訪問はあったものの、正式に一般公開されたのはなんと、2000年。
そして過去の歴史を消し去りたいギリシャ政府も、その歴史的価値を重視するようになり、ついに2005年以降観光化が進んでいくこととなったようです。
島は整備され、ヴェネツィア共和国時代の要塞、ハンセン病医療施設所時代の建物、島の歴史を解説している資料館(旧住居を利用)などが整えられていきました。
スピナロンガ島へのアクセス
主にツアーで訪れているケースが多いようですが、その場合、アギオス・ニコラオスやその他の港からもツアーとして出発している船があるようです。
近場では、プラカやエロウンダなどからもボートが出ています。
我々は、島に最も近いプラカまで車で向かい、無料駐車場に車を止め、港の券売り場で往復券を購入し島へ向かいました(往復12ユーロ:約2000円)。
この船乗り場には券売り場は一軒のみで、時刻表なども無いので、チケットを購入した際に”あと何分待ってて”と言われるだけです。
すぐ向かいにスピナロンガ島があるので、船は小さめ。
秋のギリシャは風は強いのですが、それほど揺れることも無く10分もかからないぐらいで到着しました。
帰りの便がわからないので、船員さんに聞いたとところ、40分間隔とのこと。
無論、島に着いても、この船に限らず、一切時間表や船会社名の看板などないので、各自、乗る船を間違えないようにしないと悲劇になりますのでご注意!
島にはひっきりなしに大小さまざまな観光船が乗り入れています。
スピナロンガ島の観光
さて、船に乗ったらエメラルドブルーの海を眺めながら10分弱のクルーズを楽しみましょう!
この日は風はありましたが、それほど波もなく、穏やかな海と陸を眺めながら気持ちのいいクルーズでした。
ちなみに10月末ですが、基本的に日中は25度近くで日差しはストレートに強烈です!
到着後ですが、島の観光にには別途チケットの購入が必要になります(買わなければ島の船着き場しかうろうろできません)。
チケット売り場は船着き場の目の前なのですぐにわかると思います(おそらくですが、オンラインチケットとか絶対ありません!!)。
入場料は一人8ユーロです(約1300円)。
夏季4月1日より10月31日までは、毎日朝の8時30分から夕方18時まで(ただしギリシャの祝日は基本的に閉鎖)。
冬季11月1日より翌年3月31日までは島は閉鎖されているので要注意!(ツアーなどの団体がある場合のみ団体向けにオープン)
さて、チケット購入後は改札等は無いのですが、入り口付近にいる係人に購入したチケット見せて、城砦の入り口に進みます。
この入り口(トンネル)を通り抜けると城砦内(島の中)に入ったこととなり、あとは島中、歩けるところは自由に歩き回れるといったスタイルで観光できます。
部分的に標識などで色分けされたルートもありましたが、ほぼ踏み跡を自由に歩き回るといった感じです。
城砦の内側に島を一周する道もありますが、それ以外は、かつての石畳の道やすでに道かどうかわからない踏み跡を突き進む感じです(靴が重要です!)
私たちは入り口を入ってすぐに南側に面したテラスに上がりました。
ここからは北斜面に残るヴェネツィア共和国時代の城砦を眺めたり、船着き場やエメラルドブルーに輝く海が一望できます。
そこから我々は上部に向かい古い石畳の道を登っていきました。
さらに視界は広がり、眼下に先ほどまでいたテラスや海が広がっています。
島の南側から北側に向け西側斜面を進む
ここからは住居跡らしいきものが連なる西向き斜面を南から北に向かって進みました。
ここからはなんとなく踏み跡のような道をトラバースしていく感じで気になる廃墟を見ていきました。
ところどころ方向指示の看板などがありますが、きわめてアバウトなので、まあ、行きたい方向に行けばいいかと思います。
立ち入り禁止になっていないところは基本自由に立ち入れますので、自己責任で廃墟の中を歩き回りましょう。
そこで見つけたのがヴェネツィア共和国時代の火薬庫跡(これは珍しく看板あり)。
さらにその近くに看板などはありませんが教会らしき建物。
壁に残るかすかな壁画から教会かと思いました。
島中乾燥している感じで緑はほぼありません。
道がはっきりしないので、とりあえず最上部まで行ってみることに決めて、道なき岩場を突き進みます。
最上部の南北に延びるテラスから最高の眺めを楽しむ
なんとなく道のようながれ場を突き進み最上部を目指しますが、時々失敗して別のルートを探したりもしました。
それにしても天候に恵まれ、最高の眺めが続きます(暑いけどね)。
その内、やや北部側の最上部に到達し、一つだけ残る壁と縦長のアーチから海を眺めます。
ここからは再び南側を目指して上部テラス上を歩いていきます。
最上部だけに左右に開けた景色を楽しみながら進んでいきます(この時は、若干強風に煽られながら)。
先ほどまで歩いてきた瓦礫と住居跡が連なる西側斜面もよく見渡せます。
最上部から東側は絶壁が続き、島を一周する道と島を囲む城壁は見えるものの、それ以外はありません。
このまま南に進めば、船から見上げた城砦上部にたどり着くのかと思いきや、途中で瓦礫の山に塞がれ進めなくなりました。
西側斜面を下り当時のメインストリートを目指す
ここからは最上部から西側斜面を下り(もちろん道なき瓦礫の連続)、当時のメインストリートを目指します。
先ほどは横切ったであろうルートを今度は上から下に向かって突き進みます。
建物は上部のほうが痛みが激しく、ほぼ基礎部分を残すのみですが、下るに従い少しずつ形がはっきりした遺構が次々と出てきます。
さらに下層部のメインストリートに近づくと療養所時代の病院跡が現れます。
内部の見学はできませんが建物はしっかりと残っていました(看板アリ)。
この近辺まで下ると原型をとどめた(もしくは復元された)建物が増えてきて、なんとなく当時の雰囲気が伝わってきます。
これらの多くがハンセン病のために送られてきた患者たちの住居だったことでしょう。
メインストリートにはきちんと復元された家が多くあり、それぞれが歴史の展示場となっていました。
また、このメインストリートからは直接海に出れる門が一つあり、写真撮影で大人気になっていました。
島を一周するルートを歩く
メインストリートはそのまま島を一周するルートにつながっています。
島の北部を目指して進むと、島の北側の守りの硬めとなるやや海に突き出したような要塞が現れます。
この要塞、きれいに復元されているせいかあまり戦いをイメージできません。
むしろ、ヨットなどが現れると写真を盛り上げるいいオブジェって感じになります。
島の東側は絶壁になっているので特に見るべきものは無く、島を囲む城壁とその上にできた道を進みます。
もうすぐ南側の船着き場というところに、小さい教会とお墓が残っています。
最期にまだ登っていなかった南斜面上部の半円形の城塞に上ってみました。
内側は、がらんどうですが、登ることもできます。
階段が急なので降りられる方のみ登ることをお勧めします。
それにしてもこの内壁の厚さ(上部の写真で皆が歩いているところ)が凄い。
ここまで頑丈に作る必要あったのか?とも思いますが、中世も大砲の時代になるとこの厚みが大事なんでしょうね。
まとめ
これにて、スピナロンガ島観光の話は終了となります。
おおよそ2時間強で島の観光を終えました。
午前中に島に渡っていたので船が終わる心配も無いかと思い、帰りの船の時間は一切気にせずに歩き回っていました。
帰りの船は、まさにグッドタイミングで我々の前に現れました。
とは言え、はっきりと船の形とかも覚えていなかったので、行先であるプラカかどうかを確認したうえで乗り込みました。
島には船のチケットを売る場所は無いので、皆ツアーか往復券で来ていると思います。
そのため、船員さんもいちいちチケットの確認なんてしていません。
間違うと一大事なので、自分が乗ってきた船は覚えておきましょう!
それでは、クレタ島の話、まだ続きますので気長にお付き合いください。