イラクリオンからGR(Greek National Road)90号線=E (European Rout)75号線を西に向かって走り、その後南下したところにあるアルカディ修道院(Moni Arkadiou, Sacred Monastery of Arkadi)。
自然に囲まれた山岳部(海抜500メートル)にあり、一見要塞のようにも見えるギリシャ正教会の修道院です。
エントランスになっている西門 1870年に再建されたもの。
エントランス(写真の右の壁に見えるアーチのところがチケット売り場)を入ると、正面に教会堂があります。
1587年に建てられた教会堂を中心に、それを取り囲むように、修道士の居室、台所、食堂、巡礼者や労働者あるいは貧困者などが食事や寝泊りできるスペース、各種倉庫などが配置されています。
もともと13世紀初めに、アルカディオスという名の修道士が建てた小さな礼拝堂があった場所だったところから、アルカディ修道院という名がついたのだそうです。
教会堂の中。壁一面のイコンに正教会らしさが感じられます。
かつての食堂
巡礼者、労働者、貧困者などに食事をふるまったり宿泊所として提供していた部屋
そしてこの修道院は信仰の地というだけではなく、1866年のクレタ蜂起の際に反乱軍の司令部となったことでも有名です。
当時クレタはオスマン帝国の支配下にありました。クレタ人(キリスト教徒)はイスラム教徒との差別を理由にそれまでにも何度も反乱を起こしており、その当時はオスマン帝国の譲歩によるある程度の平等や特権を確保していたのですが、オスマン帝国からの完全な独立、ギリシャとの統合を究極の目標に1866年に大規模な反乱を起こしたのです。
トルコ軍が発射した銃弾痕が残っている木
アルカディ修道院に立てこもった反乱軍はオスマン軍に包囲されましたが、降伏せずに徹底抗戦することを選びます。そして、避難してきていた近隣集落の非武装の住民達もトルコ軍に捕らえられることをよしとせず、最後は元ワインセラーで火薬庫として使用していた部屋に火を放ち集団自決するという悲劇的な結末を迎えたのです。
反乱は3年にも及び、一時は反乱軍が優勢になったこともありましたが、最終的には、更なる地方行政管理権を得ることと引き換えに、反乱指導者達はオスマン帝国の支配下に戻ることを受け入れました。しかし、この時のアルカディ修道院におけるクレタ人の行動は、自由と自由のための尊い自己犠牲のシンボルとして、ギリシアの歴史の中で語り継がれることになったのです。
ユーロ導入前、ギリシャの通貨がドラクマだった時代、100ドラクマ紙幣の裏面の図柄はアルカディ修道院の教会堂のファサードだったそうです。
1866年の戦闘で破壊された部分の多くはその後再建され、多くの訪問者を受け入れなお静謐に包まれている現在のアルカディ修道院。
心落ち着く空間であると同時に、オスマン軍が放った銃弾が残っている木や蜂起当時の様子を描いた絵画や説明などの展示が壮絶な過去を偲ばせます。修道院の備品(?)展示もあり、そちらも興味深く見ることができました。






入場料1人3ユーロでとても濃い時間が過ごせるスポットでした。