アルフォンス・ミュシャ(1860-1939) の作品のみを展示している、世界で唯一の美術館だそうです。
それでは、アールヌーボー画家として一時代を築いたミュシャの作品をゆっくりと鑑賞していきたいと思います。
アルフォンス・ミュシャとは?
アールヌーボーを代表する画家として日本でもよく知られるアルフォンス・ミュシャは1860年にチェコ(当時はオーストリア帝国領)のモラヴィア地方に生まれました。ちなみにミュシャというのはフランス語読みによるもので、チェコ語読みではムハなのだとか。
若いころにモラヴィアの貴族に才能を見込まれ、ミュンヘンの美術アカデミーで学び、次いでパリに留学し、そこで挿絵画家として演劇雑誌の仕事を得ました。
1985年に幸運にもビックチャンスが訪れます。フランスの大女優、サラ・ベルナールの舞台の宣伝ポスターを手掛ける機会に恵まれたのです。なんでも、年末休暇時期の突然の発注だったため、主だった画家が軒並みパリを離れており、運よくミュシャのもとに依頼が転がり込んできたのだとか。
完成したポスターはパリで大好評を博しました。また、この作品をとても気に入ったサラ・ベルナールはミュシャと5年間の契約を結び、さらに衣装やアクセサリーまで引き受けたミュシャは、一躍有名となっていったのです。
こうしてパリ時代にはさらに様々なメーカーのポスターや包装紙を手掛け、アールヌーボー画家として不動の地位を築きました。
パリのみならずアメリカにも進出し大成功をおさめました。
その後、1910年にチェコに戻ったミュシャは、プラハ市民会館の『市長の間』の天井画、窓ガラス、ソファーやカーテンなどを手掛けました。
さらに、1918年にオーストリア帝国が崩壊してチェコスロヴァキアが誕生すると、チェコスロヴァキアの紙幣や切手、国章のデザインなども行いました。財政難の国のため、無報酬でそれらの仕事を請け負ったそうです。
そうそうプラハ城の聖ヴィート大聖堂の身廊の北部のステンドグラスも彼の手によるものです。
晩年は肺炎やゲシュタポによる「作品がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由での逮捕、それに続く厳しい尋問などで健康を害し、釈放されたものの1939年に亡くなりました。
戦後に成立した共産主義政権は、ミュシャの生前の愛国的行動が、国民の愛国心を喚起することにつながることを警戒し、彼の存在を無視していたそうです。しかし民衆はミュシャを忘れ去ることはなく、プラハの春や1960年代以降にアールヌーヴォーが世界的に再評価されるようになったことなどを契機に、ミュシャも改めて高い評価を受けるようになり、現在ではチェコを代表する国民的画家という地位を得ています。
美術館情報
場所は、旧市街とプラハ中央駅のちょうど真ん中あたり、最寄り駅は地下鉄 Metro Line A と Line B が交差する駅 Můstek から数分。
賑やかな通りではなく、静かな通りにあります。
美術館も一見普通の建物のようですが、地上階の窓の一部が作品のパネルになっているので間違いなく見つけられると思います。
また、下記の旅行情報のリンク先では日本での公式情報をご覧いただけます。
展示作品
決して大きい美術館ではありませんが、時代ごと、テーマごとに配置された作品は、第一部が装飾パネルであり、テーマごとに4つの縦長の女性像が描かれています。
さらに圧巻なのが、第二部の主にパリなどの時代に手掛けられたポスターです。まさにアールヌーボー時代の作品でどれも見ても、これだけの作品が、独立した作品でなく、あくまでも舞台作品などの宣伝ポスターかと思うと、なんて贅沢な時代があったのだろうと思ってしまいます。
さらに、作品のもとになったデッサンやチェコに戻ってきてからの作品なども展示されており、彼の作品の変遷がよくわかる、小さいけど見ごたえのある美術館です。また、館内の1コーナーで上映されているドキュメンタリビデオも興味深く面白かったです。
美術館内は撮影禁止のため、写真はありませんが、上記公式リンクで作品の一部を見ることができます。
最後に
「そういえばプラハにはミュシャ美術館ていうのがあるらしいから、ちょっと行ってみようかな」程度で、事前に十分な知識を持たずに訪れたこの美術館。
こじんまりとしていて、展示作品数もそんなに多いわけではありませんが、ミュシャの生涯とその作品への造詣を深めることができる美術館でした。
独特の表現とアールヌーボーという時代の流れの中で生み出された作品たちはとても魅力的でした。
私たちは順番が逆になってしまったのですが、この美術館を見てから市民会館の『市長の間』やプラハ城内の聖ヴィート大聖堂のステンドグラスを見に行くとより感慨深いのではと思ったりします。